8月15日の今日は聖母の被昇天の祝日であると同時に終戦記念日。
5年近く前に96歳で亡くなった母が、書き残しておかなければと綴った記録がある。
順不同ではあるが、私たち戦争を知らない世代へのメッセージとして、ここにご紹介したい。
以下、母の記録そのまま:
「大連に残留した日々の思い出」(2001年10月17日記)
1.戦時中の日本軍の非道の一面
戦争は昭和16年12月8日に始まった。それ以前に日支事変(太平洋戦争)の始まり。
今年100歳で亡くなった張学良の父、張作霖は、日本軍河本大作大佐に暗殺された。
大佐の娘三人のうち次女は、神明高女の私たちより1年下のクラス。参女は3年下だった。
大佐はその後、満鉄理事となり、覇権を握った。敗戦後に亡くなった。河本大佐の次女は
現在聖心女学院のシスターである。
その頃から鉄道研究所では、研究はすべて軍関係のものだった。北海道から大連まで、
軍馬を船で運び、大連から北満へ鉄道で運ぶ。馬は立ち通しのため、揺れると足を骨折し、
使い物にならなくなって射殺された。馬が膝をつかぬよう、振動を少なくする研究だった。
及び、馬のつなぎ方(研究所の研究は)。
また、米機を迎え撃つ高射砲は陸地からでは間に合わぬので、小舟にのせ、揺れる小舟から
敵機を撃つその舟の振動を少なくする研究など、マンガのような思い付きを真剣にやっていたらしい。
昌子が生まれて10か月目くらいの時、連日、鉄研の研究室に、軍の技術将校と名ばかりは偉そうで
威張っていただけの、人品の卑しい人間だったらしいのが配属されて来ていた。
11月の終わりごろ、その軍人を連れて、主人が帰宅し、夕食をごちそうするようにとのことで、
ない材料を全部使って次々と酒の肴を作ってもてなした。(夫は、満鉄鉄道研究所に勤めていた)
12時過ぎても帰ろうとしない。そのうち主人は血相を変えて台所に来て、小声で、昌子をおんぶして
ばあちゃんの家に行け!と言った。私は悟って、素早くねんねこで昌子をおぶって、歩いて15分の
所に住んでいる山川の父母弟妹の官舎に、夜道を夢中で走って、走って行った。事情を話すと、
すぐわかり、暫くそこに留まって、多分夜中の2時ごろ、姑が私と昌子について来てくれて、
白金町の社宅に戻った時は、その兵は帰ったあとだった。
主人は命がけで私と昌子を守ったあとで、ただ呆然としていた。
日本の兵隊は、酒の酔いに任せて、「古井戸の掃除は飽き飽きした。新鮮な水が欲しい」という表現で、
奥さんを提供するように命じたとのこと。主人は必死で、でも表面は穏やかに、私を呼んだが、その時は
私はもう走っている最中。「多分、酒でも買いに行ったらしい」ととぼけたら、相手も酔いがさめて
帰って行ったと言う。今から考えれば、そのようなことをしたら、本人だって、営倉(牢屋)に入れられた
だろうが。
そのような話はゴロゴロあり、珍しいことではなかった。自分の奥さんを目の前で凌辱されて、その結果、
その奥さんを夫が殺して、夫も自殺するという話は珍しくない悲劇だったのだ。
このことがあってから、主人は研究熱心だけの世間知らずの坊ちゃんではなくなり、私は心身共に救われた。
(訳者)