翻訳者のブログ

著者雑感 ~看取るということ~

偶々、父と母を看取るという
幸いに恵まれた。
看取りについて、考える。

父の時は、母を独りにしなくて
よかったと思った。
独りで看取るのは心細かったと思うから。

母の時も、看取ることができた。
私独りの時だった。
心細くはなく、母との最後の一時を
恵みの瞬間として味わうことができた。
胃ろうの管を外して3日目のことだった。

水分過多に苦しむ母を見て、
胃ろうを外すことを決断した。
決断に至るまで、本で調べ、医師に相談し、
司祭にも相談し、自問し、祈りを続けた。
共に祈ってくれたシスターの励ましは
とても心強かった。

母の最期はとても穏やかだった。
私は母に、「今まで育ててくれて、
ありがとう。わがままだった私を
ゆるしてほしい」と詫びた。
母は目で頷いてくれた。
そして、少しお水を含ませてあげようと
脇を向いている間に、母は逝った。

このような最期を「平穏死」と言うらしい。
それを私は、石飛幸三医師の本で知った。
安楽死でも、尊厳死でもなく、穏やかな最期。

私は、母の穏やかな最期を看取り、
自分も、こうありたいと思った。
ただ、私の場合は、独り暮らしだから、
いわゆる看取りはないだろう。

でも、ふと思うのだが、
自分で自分を看取るということも
ありではないかと、孤独死と言うのは、
本来あり得ないものではないかと。

自分という存在が
自分を看取ってくれている。
自分より先に逝った人たちが
看取ってくれる。
存在を信ずるならば、
天使たちが看取ってくれるはずだから。

毎晩、感謝して床に就き、
天使たちから看取って頂くことを期待して
最期に備えることは、できるのではないか。

今日ふと、そんなことを考えた。
毎日、安穏に暮らしているからこその発想だ。
こんな夢想をさせてもらえる境遇に感謝。
(12月6日の母の命日に投稿)