翻訳者のブログ

著者雑感 ~姉が寄せた引揚の記憶~

今年も平和旬間がやってきた。戦後に大連から引き揚げてきた時の記憶を姉が寄せてくれたので、ここにご紹介したい。
以下、そのまま。

戦争の記憶 ・ 引揚の記録

私たち姉妹の父が 満鉄の技術者として、ぎりぎりまで列車を走らせるために慰留されたため、大連港からの最後の引揚船に乗るまで自宅で過ごせたことは、すごく恵まれていた。
引揚者の中には、満州の奥地から、大変な思いをして(匪賊から必死で逃れるなど)大連までたどり着き、日本の管轄下にあった引揚船にやっとの思いで乗船した途端、安心のため、目的地である舞鶴港を目の前にして、船内で命を落とす人が続出した。でも、亡きがら(遺体)を内地に連れ帰ることは許されず、僅かな毛髪と爪を遺体の代わりに持ち帰るよう指示され、遺体はシーツにや毛布に包まれ、その場で水葬にされ、船は「ボーッ」と汽笛を鳴らして三回廻り、また舞鶴めがけて航行するのだった。

その光景は当時6歳だった私の記憶にはっきりと残っている。 
やっと到着した舞鶴港では、頭が真っ白になるほどDDTを振りかけられた。
舞鶴からは、大分県竹田市より迎えに来てくれていた父の弟と共に竹田市へ向かった。
その後父は、直入郡の長湯温泉にある女子高校で教師の職を得て、家庭科以外はすべての教科を教えていたという。
私(長女 昌子)は小学2年生まで長湯小学校に通っていた。

その後、先に帰国していた、満鉄時代の父の同僚の誘いで、父は縁もゆかりもない群馬県桐生市の群馬大学工学部に職を得て、機械科で振動学を教えることとなり、定年まで勤め上げた。その間の私ども家族(両親と私たち姉妹3人)の住居には、学生寮の部屋を二部屋供与され、親子五人、その後市営住宅が当たるまで2年間そこに住んでいた。
学生たちのたまの楽しみであるコンパ(飲み会)には、お店を使うとお金がかかるということで、父はいつも我が家に学生たちを招待し、母はその度に得意の餃子と火鍋(ほーこーず)でもてなしていた。母にとっては、手間はかかるが、あまりお金をかけないで出来る最大のもてなしだった。でも、当時の(多分、今でも)学生たちにとっては、大ご馳走だったにちがいない。
卒業後もよく訪ねてくれていた卒業生たちには、母はそれらをよく作ってご馳走し、喜ばれ懐かしがられていた。
今でも、我が家の来客には、たびたびおもてなしに出てくる定番料理ではある。

向井(山川)昌子
昭和17年12月7日生まれ